心に残っていること3

その3.合格レベルの受験生

論文の答練などで講師の人が「合格レベルの受験生なら必ず書いてくる事項です」みたいに言っているのがよく聞かれました。書けていない人にプレッシャーをかける目的なのでしょう。

それでも私には引っかかるワードでした。合格レベルの人ってのは誰かということです。合格基準を決めるのは工業所有権審議会であって講師ではないと思いました。本番でどんな問題が出るかも分からない。時の運でヤマが当たることもあるし、その逆で実力があるはずなのに発揮できないこともあります。合格レベルというのは試験を受けてみるまで分からないはずです。おそらくその年合格するのならこのくらいの内容なら当然書けているはずという判断の下そう言っているのでしょうが、あまりにも書けていない人を区別しすぎる極端な表現かなと思います。

似たような話で答練では優秀答案が選ばれて配布されることもあります。これも講師の主観で思い描いていた回答に一番近かったので選ばれることになるのですが、その主観が膨大な知識があり、多くの答案を見てきてのもので客観に近づきつつあるものならば、それはかなり信用できるものでしょう。しかし、講師の経験が浅いような場合、優秀と判断したその判断が信用できるのだろうかと考えるわけです。

私も自分の書いた答案が優秀答案となって配布されたことがありますが、それによって浮かれないようにしていたし、何が評価されたのかを振り返ってよく分からない評価は信用しないようにしました。

そもそも合格したときに、自分の理解は間違っていなかったし、やってきたことも問題なかったと証明されるのであって、やる前から合格レベルなどと区別すること自体あまり意味がないのです。そんなことに踊らされるくらいなら、書けなかった問題も復習して次は絶対書けるようにするとか考えていた方がよほど生産的です。「合格レベルの人なら…」という解説がなされて納得いかないときは、「そんなものは存在しない」と心の中で唱えておきましょう。

H27短答やってみました

片手間で何も見ずに短答をやってみました。

特実13 意8 商8 著不9 条7

の45点でした。

4法は忘れていたり、改正の部分が分からなかったりしたので、間違いました。

奇問ということなら例年通りだったのではという印象です。条文、青本判例の言い回しが正確に再現できれば正解できるのではと思います。問46は確かに枝1も正解に見えてしまいますね。

しかし、奇問があったので、合格点に届かなかったと思っているようでは、大局が見えていません。毎年「これが正解かよ」みたいなことは数問はあります。そんな問題は記憶に残るので、その年不合格だとするとまるでその問題が原因で落ちたかのような錯覚に陥ることがあります。ところが、そういった問題以上に基本的なことが分かっていれば、正確に記憶していれば、確実に正解できる問題があるということです。奇問は数問あるものだと想定して落としてはいけない他の問題で確実に得点を稼ぐ、これが重要なのだと思います。

もう少しで結果が出るかと思いますが、合格に届かなかったからといって奇問を敗因にしてはいけません。何でこんなの間違ったんだという問題が他に必ずあるはずです。問題を読み違えたのかもしれません。はたまた、その問題を解くときに集中力が落ちていたのかもしれません。思い当たる節があるのであればそれは凡ミスです。ならばなぜその凡ミスは起こったのか、再発を防ぐにはどうしたらいいのか、普段問題を解くときに何に気をつけたらいいのか、そこから考え直さないと来年も同じ結果となってしまうでしょう。ただのマーク式テストですが短答はそのくらい緻密な準備が必要なんだと思います。

心に残っていること2

その2.題意把握ミス

前の記事と似ています。人の失敗を一括りにして名前をつけるなよって感じです。失敗は失敗なので、認めないといけないとは思いますが、間違いないと信じて疑わなかった問題に対する認識が「全く違いますよ。問題の何を読んでいたんですか?」と全否定されているので認めがたかったです。しかも、模範解答が基準でそこから外れるとほぼこう書かれる予備校もあります。これを書かれて何も感じないのであれば、間違いないと信じるまでの自信がないかただのマゾかのどちらかだと思います。

自分としては「ここまではOKだけど、この記述は少し違う」とか書かれる方が受け入れやすいし、精神衛生上もよいです。こういう評価をしてくれる予備校に通ったほうがいいんじゃないでしょうか。実際の論文試験を受けた感触からすると、横道に逸れすぎるのは良くないのですが、記載のぶれは吸収していると思います。大筋が間違っていなければ良くて、随所にキラッと光るキーワードみたいなのが、理解していることを示せていいのかなと思います。

要は講評でもっともらしいことを書かれたとしても、「本当に自分は題意把握できていなかったのだろうか」と自問自答する機会も設けるべきです。自分の思考の何がずれていてそんな評価になったのかを分析するのです。そうすることで誰の受け売りでもない自分なりの理解ができるようになると思うのですがいかがでしょうか。

心に残っていること1

ここからは思いつきの取り留めのない駄文かもしれません。

 

その1.積極ミス

論文の講評でよく目にすることがありました。的外れな記載があると「この記載は積極ミスです」とかなんとか書かれるわけです。

的外れかどうかを判断する基準は模範解答ですから、これのコピーが書ければ100点でずれていれば点が下がる。当然のことなんですが、私はこれがあまり納得いっていませんでした。別解の存在を否定しているからです。別解の方が実は筋がいいということもあるかもしれないし、的外れなことを書いたときに何が悪かったかも示さずにただ単に「積極ミス」とされてしまう。私はそんな講評は読む価値もないものとして捉えていました。逆に「その考え方はこう間違っている」とか「こう考えるといい」とかいう講評を見かけるとなるほど次から改めようとなるのですが。

そもそもですが、書く方も積極的になんてミスしないはずです。皆確信のほどはさておき、この記述が正しいに決まっていると思って回答を書くのであって、進んで間違った回答を書きたいなんて人は一人も存在しないはずです。それに向かって「あなたは積極的にミスしましたね」では指摘として少しずれを感じてしまいます。だいたい積極的なミスがあるのなら消極的なミスもないとおかしい気もします。

試験の形式として論述という非常に自由な裁量が与えられているのですから、実際には正解か不正解かは境界がもっとあいまいなはずなんですよね。採点者によっては全員が正解しているとも言えるし、ミスしているとも言えることもある。そう考えていると積極ミスなんて書かれても非常に表層のことしか言っていなくて単に書き間違ったのか、自分の回答に至るまでのロジックが間違っていたのかは全くわかりません。ミスがあったとしてもミスがミスと思えないほど論理立っていたので素晴らしい、恐れ入ったなんてこともゼロではないと思っています。

そういうことで、ミスに積極的も消極的もなく自分の理解に間違いがあったのでそこはミスの理由も考えて本当にそれはミスなのかを確認した上で、次からはしないようにしようという判断をするのがよいと思うのですがいかがでしょう。

やらなかったこと11

その11.自分がこれだと思うもの以外は取り入れなかった

結構苦しい言い回しになってきました。これでだいたい終わりだと思います。

 

思えば自分の勉強のスタイルは諦めることの連続だったと思います。最初はこれだと思って取り入れた方法も違うと思ったら固執せずにさっさと捨てる、捨てられるようにしておきました。

短答では、当初は分厚い問題集を買ってこれを全部やろうとか、書かないと覚えられないと思い込んでいたので4法条文を全部書き下して覚えようとか無茶なことばかり考えていましたが、年々無駄を削ぎ落としているうちに、過去問を何十回とまわして間違った問題をチェックしたり、条文も意味を考えながら読み進めることを何十回とまわすようなシンプルなものに変わっていきました。

論文では、出題パターンに合わせて回答のテンプレートを用意しておくといい、とのことだったので実際の試験で試しましたが、問題数が増加している試験の傾向に全く対応できなかったので、問題によって記載量のバランスを調整する感覚を磨いたり、レジュメや模範解答の一節でこれは自分の解答として使えると思ったら自分のノートに集積していくことを繰り返す手法が確立されてきました。

後述では、勉強ネタが多すぎて片っ端から目を通してみようと思っていましたが、結局その中で問題の質が一番良かった◯々木の過去問集を信じてとにかく反復練習するスタイルになりました。

こうしてみると、自分の勉強は反復が基本にあります。地味ですがこれが結局一番効きます。何より自分のスタイルについて主体的に考えることです。みんながやっているからなんとなく取り入れたスタイルで試験に勝てるでしょうか。他人の言っている方法に流されて自分のスタイルが崩れているようではこの試験の突破はまだまだでしょうね。

やらなかったこと10

短答試験お疲れさまです。東京は気候的にもコンディションがよかったのではないでしょうか。私も気が向いたら解いてみたいと思います。

 

その10.論文模試の結果を一切見なかった

採点者の講評の品質が悪かったからです。特に大手の予備校の論文模試になると何千通とかになるので予備校の人員だけでは回らないようで試験の合格者にあたって採点者を確保したりもするようです。実際私にも依頼がきました。こんな状態ですので、採点者によるためになる講評に出会える方が稀有かもしれません。

論文模試の受けはじめで、状況が分からなかったころは講評まで読んで次に活かしたい気持ちもあったのですが、論文試験に向けて自分を鼓舞するためには必要がないと考えるようになりました。私の中では、答練や論文模試は制限時間内に自分の考える論点を的確に記述し、その模範解答を得る場という位置づけになりました。採点者がどう思うかはどうでもいいという考え方です。本番でその人に採点されるわけではないし。その代わり模範解答は最大限に活用しました。青本の焼き直しではなく論理的に考えないと前に進めない問題などは特に集積の対象です。絶対自分のものとして会得するまで練習しました。私はこの活用方法でよかったと思っています。

というのも自分が論文試験に合格した年の直前期に一つの予備校に偏らないようにうまく論文模試をやりくっていたとき、論点落ちはあったが、最後まで書ききっているしまずまずの出来だと思っていた答案の採点が返ってきて20点台の得点がついていたのを見たときでした。逆に何を採点したのか問いたかったし、直前期にこんな点をつけて何の激励になるのかと思ったし、単に杓子定規に模範解答と見比べて項目が落ちているから減点で、減点が積み重なってその得点という何の収穫もない採点と講評だったので、残念ながら自分の気持ちを上げる言葉は一言も書かれていないと判断してそのまま捨てました。その後もその予備校の模試は何回か受けましたが、絶対に結果は見ずに捨てました。

採点者は模範解答通りに採点したので適正に仕事をしたのでしょうが、直前期の貴重な1日を潰して丹精込めて書いた答案がそのように扱われるのは自分としては採点者の品性に欠けるんじゃないかななどと思うわけです。

やらなかったこと9

明日が短答試験ですね。ジタバタしても仕方ないので気になるところを確認する程度でよいかと思います。

 

その9.蛍光ペンを使わなかった

大手予備校で特に取り入れられている手法です。問題文、テキスト、レジュメ、青本…色々とりどりになっています。これによって大事なところが強調されるそうです。

蛍光ペンで塗ることが前提で講師がわざわざテキストを蛍光ペンで塗りなさいといっている講義もあるくらいです。別に蛍光ペンで塗るかどうかは個人の自由にさせてくれよといった感じですよね。

ほとんどの行が何色かの蛍光ペンで塗りつぶされているページを見かけたこともあります。全部が重要で全部を覚えなければならないのは何となくわかる気がします。ですが、これだとほとんどの行が強調されて結局どれが大事か分からなくなると思いませんか。私は試す前からおかしいと思って採用しませんでした。そもそも本に線を引くという習慣もなかったので、青本にも一本も線を引いたことはありません。

問題文の最後まで塗り終えて問題の内容理解もできればよいのですが、結局読まないと内容は入ってこないので二度手間となるわけです。本番の論文試験でも当然のように蛍光ペンを広げている人もいました。どうやら禁止されていないようですね。ご苦労なことに本番であっても蛍光ペンで塗ってから答案を作り始めるようです。私は問題文は見落としてはいけないところだけ青のペンでアンダーラインを引くことにしていました。十分に見分けられます。論文試験は時間との勝負になることもあります。蛍光ペンで線を引いていたために書きたかった論点を回答用紙に盛り込めなかったのでは意味がありませんし、いくら完璧に塗り分けたからといって誰も評価してくれません。この試験を趣味で受験するならまだしも自ら時間のロスを買ってでているようならすでに負けています。百歩譲って答練の段階で使うのならまだ分かりますが、本番では蛍光ペンで塗らなくても重要なポイントは見逃さないくらい練習しておくのが本来の姿ではないでしょうか。

もし少しでも疑問を抱いているのであれば、蛍光ペンを使うのはやめておいた方がいいと思います。